『DRAGON QUEST YOUR STORY』 そのタイトルの意味(ネタバレあり)


「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」予告②

国民的ロールプレイングゲームであるドラゴンクエスト。 これだけ娯楽が多様化している現代でも尚根強い人気があり、最新作のXIは3DS、PS4の2機種のみならずNintendo Switchでも発売される。そんなドラゴンクエストを3DCGを使って映画化したのが、『DRAGON QUEST YOUR STORY』。 僕も一ファンととしてワクワクしながら見に行ったので、その感想を書いてみる。(以下ネタバレあり)

物語のベースとなったのはシリーズ第5作であるドラゴンクエスト5。僕はちょうどリアルタイムでプレイしていた世代にあたる。 親子三代に渡る物語で、幼馴染の女の子との冒険、パパスの死、奴隷生活、キラーパンサーとの再会など様々なイベントが用意されている。中でも一番有名なのは「結婚システム」だろう。 幼馴染のビアンカと、お金持ちであるルドマンの娘フローラ(PS2版から小さい頃主人公と面識があったことを表すシーンが追加される)、フローラの姉デボラ(DS版から追加)の3人の中から自分の結婚相手を一人選んで共に旅をする。 誰を選ぶかによって細かいイベントの内容は変わるが、話の大筋は変わらない。それなのに、SFC版が発売された当初は、いや今でも誰を選んだかで話が盛り上がり、時には対立することもある。大の大人がゲームの中の結婚相手で真剣に議論している様子は傍から見たら滑稽でしかないが、それだけドラクエ5の結婚システムが画期的だったということだろう。 ちなみに僕は何回もプレイして一通り全員と結婚するが、最初と最後は絶対ビアンカを選ぶ。つまり、SFCとPS2は最低でも3回ずつ、DS版は最低でも4回プレイすることになる。そして、SFCから始まりPS2、DSでのリメイク版全てプレイしているので、最低でも10回、実際はそれ以上プレイしている。それだけプレイしても飽きないぐらいストーリーが作り込まれているので、今回の映画でこのドラクエ5が取り上げられたのも納得できる。 予告ではゲームでも重要なシーンが迫力あるアニメーションで再現されていたので、ワクワクしながら映画館へと足を運んだ。

そして、映画を見終わった感想だが、結論から言うと今回のドラクエ映画のストーリーは賛否両論分かれる、もしかしたら否定的な意見の方が多いかもしれないと思った。僕もクライマックスのシーンでかなり混乱した。ただ、後になって冷静に制作側が贈りたかったメッセージを自分なりに解釈することができた時、今回の映画をすっと受け入れられることができた。

クライマックスまでのあらすじ

映画が始まり最初に表示されるのはSFC時代のゲーム画面。幼少期の重要イベント、ビアンカとのレヌール城への冒険やいじめっ子からゲレゲレの救出はこのゲーム画面で進む。いわばダイジェストのようなもの。 その後舞台はサンタローズの外れに建っている小屋へと移り、映画本編はここから始まる。周りに雪が積もっているのに薄着でゲレゲレと遊び周る主人公リュカ。不審な青年に声をかけられた後、パパスが登場。共にラインハットへ。 ラインハットのいたずら王子ヘンリー。城から抜け出した彼とそれを追ってきたリュカはモンスターに攫われてしまう。廃墟へと彼らを助けにやってきたパパス。最初は優勢だったものの、ゲマにリュカを人質に取られてしまったためになすすべがなく、やられてしまう。リュカに彼の母マーサが生きていることを告げて息を引き取るパパス。しかし、リュカとヘンリーそのままゲマに連れ去られて奴隷として働くことになる。 それから数年。酒場のマスター、プサンの助けもあって労働させられていた神殿から逃げ出すことに成功したリュカとヘンリー。彼らはそのままラインハットへと向かい、リュカはラインハットの手前でヘンリーと別れる。パパスの遺言でもある、マーサを探すために。 そして、かつて暮らしたサンタローズの小屋でサンチョと再会するリュカ。彼から、魔界の門を閉じるのに必要な天空の剣がサラボナにあるらしいこと、そしてその剣を唯一使える天空の勇者はきっとあなただと言われる。その言葉を間に受けて、パパスの剣と共に旅立つリュカ。 途中、スライムが仲間になり、かつての相棒だったベビーパンサーが成長したキラーパンサーとも再会し、一緒に旅を続けてサラボナにたどり着き、そこで幼馴染の一人であるフローラと再会する。 サラボナではブオーンという魔物が暴れていた。しかも、リュカが探している天空の剣はブオーンに奪われていた。 再会したもう一人の幼馴染ビアンカと共にブオーンに挑むリュカ。ブオーンの巣にあった天空の剣を奪還し、その剣でブオーンに挑もうとするもリュカは天空の剣を抜くことができなかった。自身が天空の勇者でないことに落胆しつつも、何とかブオーンを倒したリュカ。しかし、止めはささず、自分の下に降ることを選ばさせる。 ブオーンを倒し、ビアンカのアシストもあってフローラとの結婚直前までいったリュカだが、占いババ(実はフローラが化けていた)のアドバイスと不思議な薬によって、自分の本当の気持ちに気づきフローラではなくビアンカと結婚することを選ぶ。 結婚して勇者探しの旅にでる二人と二匹だったが、息子アルスが生まれたため一旦中断してサンタローズの小屋で暮らすことに。そこに襲いかかるゲマたち。 なんとかサンチョとアルスは逃がすことができたものの、リュカは天空の剣と共に石像にされ、ビアンカはゲマに連れ去られた後にリュカ同様石像にされる。 それから8年。ある少年が特別な杖を使い主人公の石化を解く。そこに、襲いかかってくるモンスターたち。武器を手放してしまった少年に向かって、思わず天空の剣を投げるリュカ。天空の剣は天空の勇者しか使えないことを思い出して慌てるが、少年は天空の剣を解き放ちモンスターたちを一掃する。 リュカを石化から解いた天空の勇者、それは息子アルスだった。 その後、妖精の女王やマスタードラゴンであるプサンの力を借りてビアンカの石化を解いた後、最終決戦に向かうリュカたち。しかし、マーサを助けることができず、多勢に無勢の絶体絶命のピンチに陥る。そんな中助けに現れたのはヘンリーとラインハットの兵士たち、そしてブオーンだった。 彼らの助けもあってゲマを倒すことに成功したリュカとアルス。しかし、ゲマは最後の力を振り絞り魔界の門を開けてしまう。 アルスは魔界の門を閉じるため、天空の剣を開きかけた魔界の門へと投げ入れた。そのおかげで魔界の門は閉じたように見えたが・・・。

ここまでの感想

アルスが天空の剣を抜くシーンや戦闘シーンは迫力があり楽しめたが、全体としてはストーリーがバタバタ進行している印象を受けた。そもそもドラクエ5はイベントの種類が多い。 例えばゲームでは主人公たちと一緒に脱出する奴隷マリアは出てこない。彼女をだすとヘンリーとの結婚イベントは避けられないし、彼女を助けるために尽力した彼女の兄の白骨死体と残されたメッセージなどの小ネタも挟んでほしいところだ。 またグランバニアはリュカの姓として名前は出てくるが、王国としてのグランバニアは登場しない。 主人公たちの子どもは本来男の子と女の子の双子だが、でてくるのは男の子の勇者アルスのみ。 パパスの剣もゲレゲレ(キラーパンサー)が守っているのではなく、普通にサンチョから渡される。などなど、原作ファンとして思うところは他にもあったが、それら全てを2時間弱の尺に収めるのは難しいし、スタッフもどのエピソードを削るか苦労したと思う。 途中説明不足を感じるシーンはあったものの、こんなもんかと思って見ていた。それでも見れてしまったのは何度もドラクエ5をプレイしてたことで脳が勝手に補完したこと、そしてドラクエというコンテンツが持っている力のおかげだろう。そして、クライマックスのシーンで驚くことになる。

クライマックスについて

クライマックスでの話の流れ

アルスが投げ入れた天空の剣は魔界の門を閉じることができず、謎のオブジェが魔界より出現する。瞬間、リュカ以外全員の時が止まった。そこに現れるミルドラース。しかし、それはゲームにでてきた姿ではなく、機械的な喋り方をする流線的なシルエットのロボットのような姿をしていた。

ミルドラースは告げる。これはゲームの世界だと。

そして色を失い、形を崩していく世界。

ミルドラースは告げる。自分はこの世界を破壊するためのコンピューターウイルスのようなものだと。

ミルドラースは告げる。大人になれ、現実を見ろと。

そして映し出される、ある機械の中でリュカと同じ顔をした青年がしゃべる姿。それはドラクエの世界でリュカの現実の姿であり、彼は仮想現実のような装置を使ってドラクエ5をプレイしているだけに過ぎなかった。

ドラクエ5における子ども時代のレヌール上の冒険がなかったのは、現実世界でリュカがスキップするように設定したから。

最初にビアンカではなくフローラを選ぼうとしたのは、次はフローラかなとプレイ前に自己暗示のプログラムを設定しまっていたから。

そして、ドラクエの世界を壊そうとするミルドラース。 形を失っていく世界の中、ミルドラースの前に立ち塞がったのは、なんとスラリンだった。 実は冒険当初から仲間だったスラリンはこの世界を管理するシステムのような存在らしい。そしてスラリンの助けもあって、ロトの剣を彷彿とさせる対アンチウイルスプログラムを使うことでミルドラースを倒すことに成功したリュカ。 ゲームの世界は元に戻り、リュカは家族であるキャラクターたちとエンディングまで旅をする。

クライマックスを見ての感想

ミルドラースがこの映画があくまでゲームの話だと明かした時の衝撃は、ゲーム『スターオーシャン3』で主人公たちはゲームの世界の住人でした、と明かされた時と同じで、思わず(うわっ、スターオーシャン3と同じ展開や。)と心の中で唸ってしまった。まさかのメタ展開。 多分、映画館で一緒に見ていた人全員が急な展開に戸惑っていたと思う。 パパスの死も、ゲレゲレとの再会も、ビアンカとの結婚も、アルスの誕生も、マーサとの別れも全てゲームの中での話のこと。そう言われたようで、それまでの興奮や感動が一気に覚めた。だから見終わった直後はちょっと、う~~~~んという感想しか持つことができなかったが、冷静になって考えてみると、これはただ「ゲームの話でした。」で終わらせたのとは違うんじゃないかという思いがでてきた。

そもそも、映画の中で違和感を感じる部分はあった。それは、モンスターが倒された時に死体が残るのではなく塵のようなものになって消え去るエフェクトと、一部のキャラクターが言った、「今回は(の)」という言葉。(うろ覚えだが、マーサや妖精の女王、プサンあたりがそんなことを言っていたような気がする。) モンスターのエフェクトに関しては、そういう世界観もあり得るのかもしれないが、登場キャラクターがまるで別の世界もあるかのようなニュアンスで、「今回」という言葉を使うのはやはりおかしい。 他にもあれがゲームの世界であることを示すヒントのようなものがあったのかもしれない。

何よりも、あれがゲームの世界で何が悪いのか? リュカだってミルドラースと対峙した時に、自分の人生にはゲームがあってプレイしている時間は確かにキャラクターたちと一緒に過ごしていた、もう一つの現実だというようなことを言っていたと思う。僕も同じで、ゲームをしている間主人公は僕の分身のようなもので、実際に自分がゲームのキャラクターと一緒に旅をしているような感覚になる。その瞬間僕は間違いなくその世界の主人公だった。 だから、ゲームの中でもパパスが死ぬ時は悲しいし、子どもの名前をどうするかで真剣に悩む。ドラクエ5のそんな世界が好きだから10回以上プレイしてきたのだ。誰を結婚相手に選ぶか、そのことについて自分の意見を語っている中で「でもゲームの話だろ?じゃあ誰でもいいじゃん。」と言われて納得できるだろうか?ゲームだから誰でもいいやといってフローラを選んだ後、一人で過ごしているビアンカを見るのは僕には無理だ。ドラクエ5に限らず、多くのゲームは僕にとって”ただの”ゲームではない。

ミルドラースの登場によってショックを受けたのは、僕がこの映画を単純にドラクエ5の話をそのまま映画化した、『DRAGON QUEST THE MOVIE』だと勘違いしたまま見ていたから。でも違う。この映画のタイトルは『YOUR STORY』だ。YOURが誰を指しているのか。 このタイトルの意味を考えていくと、今回の映画の終わり方は間違っていないのかもしれない。 最後に一つだけ言うとすれば、DRAGON QUEST THE MOVIEも見たい。